復帰50年

 

 先日の5/15の日曜日は沖縄日本復帰50周年の日で沖縄県民の皆さんにとって特別な日ではなかったかと思います。私も1999年から5年程、沖縄に仕事で住んでいたこともあり、仕事やプライベートなどで様々な社会問題や歴史の教科書に載っていない戦争の様々な傷跡、違った視点で歴史を見ること等、いろんなことを認識する機会を頂いたように思います。(私のような5年という短期間ではまだまだごく一部しか知らないことも多いと思います。)沖縄のサミットの際は、当時の森首相、クリントン大統領、プーチン等、国のトップの人達が仕事場の前の道を通行することがあり、肉眼で彼らを見る機会等もありました。当時の平和な状況が本当に大事だったんだなと最近はウクライナ情勢が深刻化しているのでつくづく思います。教科書に載っていない今も続く戦後の歴史ということでは、当時、仕事で少し大きな集合住宅の工事に入ると未だに自衛隊の方に爆弾処理班に連絡して不発弾の撤去をして頂くことということも体験としてありました。住まないと分からないことも多くあり、米兵による犯罪の司法権が地位協定の間で未だにまだ、正当な判決を与えられにくい等、いろいろ政治的な状況があるのはよくわかりました。(私がいた当時でも、殺人、深刻な事件、悪質な事件など、メディアに大きく出てようやく政府や基地の責任者が対応する等の感じでした。)アメリカ米軍基地の存在も沖縄の経済を考えるうえで大きなウェイトがあり、国の補助金など、予算的な支援が欠かせられない現実があるようですが、これから、基地の返還が少しづつでも進み、基地の面積が全国的にも大きくない面積まで縮小されていくことを私も元市民、県民として願っています。島ナイチャー(島に住む本土の人のことをいう)として那覇に住んでいましたが、基地からテレビ電波が入るので、普通に地上波でアメリカのテレビ番組が見れるという、英語を勉強したい人にはありがたい環境ということにも気づきました。

 ご存知の方も多いですが、独自の歴史と文化が築き上げられている沖縄県ですが、昔は琉球王国という国でした。日本の古い文化や東南アジアや中国の文化も影響がある地域なので、とても多様性があり、気候も亜熱帯という温暖な地域性で芸術や音楽、建築文化という視点でも本土と異なる意味でこれからも発展していく、注目される地域ではないかと思っています。そういう異文化に興味があり、学生の頃は国外に移住しようと思っていましたが、ご縁があり沖縄の方へ就職することになりました。

 建築基準法は、道路交通法と同じ、1972年に沖縄県に適用されました。アメリカの統治下のため、それまで右側通行だったのが、左側通行になり、建築基準法により、建物や都市計画の基準が整備されて行きました。パスポートなしで本土に行き来できるようになったのもこの年からでした。

2年くらい前に残念ながら以前の会社の上司が亡くなりそれ以降、コロナで訪れることができていないので、コロナが終息した際は、また訪れてみたいと考えている今日この頃です。沖縄の皆さんもコロナで大変なこともあるかと思いますが、少しでも日常が良い方向に回復することを愛媛からお祈り申し上げます。(写真は以前伺った時に撮影したシーサー)